雑記

・責めることと戒めるのことの違い。後者は相手の苦を減らすことが目的。目的を達成するためには知恵を絞り工夫を凝らす必要がある。
・省みる。自他を傷つける(可能性のある)言行を見て、それが配慮不足に起因すると思える場合に、考えるための材料を提供したくなる。
・それは自分が偶々そのような材料を持っているだけであって、諸条件の賜物に過ぎないという自覚がある。
・従って立場が逆であれば、指摘を、その内容によって検討し、納得できれば何の抵抗もなく受け入れる。
・聞くところによれば、指摘の妥当性を「誰が言ったか」も含めて評価する人がいるらしい。そちらが多数派という話も聞く。(「評論家は嫌われる」という俚諺?を思い出した。)
・それを念頭に置くと、たとえ相手の苦を減らしたいという意図を抱いても、相手の価値観で自分がどう見えるかということや、相手との関係性によっては、何もできない場面がある。というより、私の場合、多くの場面で、そうかもしれない。
・従って、尊敬される人を目指して言行を整えることの動因のひとつに慈悲の念がある場合があることは自明。
・上記した「材料」が必ずしもその件に関して正しいと思っていないが提供する場合もある。「こんな見方もできるのでは?」的に。
・相手が苦を自覚していない場合は、どうなるのだろうか。
・仏法に沿わない言行を見て自分の裡に炎が生じたことも手伝い、それが通じないであろう相手に戒めの言葉をかけたくなってしまったために、鎮火と自戒のために、当たり前のことではありますが、言葉にしてみました。
・鎮火してみると、その言行の主は、欲しいものが手に入らずに苦しんでいるように思われました。
・「仏教は俗世で不自由のなかった方が啓かれた教えなので、世俗的な願いであっても、ある程度は叶えていないと進むことが困難になる局面がある」というような考えがあることを知っています。
・この方の場合、このようなプロセスが必要な局面のように思われました。そして、望んだものを手に入れ、必要かつ可能であれば手放すような流れを過ごされますようにと思いました。