正語の難しさ

ある書籍の正語についての章を読んだ。
著者の正語のエピソードが載っていた。
その方の運営方針に反対する方々によって会議が開催された時の話。
真っ先に「無学な」方が著者を美しくない言葉で20分ほど罵ったとのこと。
それに対して著者が思ったこととして、批判者のことを、劣っている人・心を育てる機会を与えられなかった人と明言し、それに対して自分は心を育てる機会を与えられて感謝の念すら覚えたというような ことが記載されていた。
他人と自分を比較するのは慢の一種と理解していたため、それに対して著者が無自覚なことが意外だった。
また、批判者が発言を終えた後、会衆を落ち着かせたのち「今日彼は混乱している」と発言して散会させたとのことだった。
一般的に言って、公衆の面前で「混乱している」と指摘されたら、言われた人は不快に感じないだろうかと思った。
また、後日談として、批判者が困った時に助けの手を差し伸べてからは敬意を受けているというようなことが記載されていた。
完全に私の想像でしかないけれど、著者は散会を指示できるほどの立場の方なので、その立場に付随する何かに基づいて助力したように思われた。
国際的(少なくとも著者の母国と当地)において知られる方のエピソードとして興味深く拝読した。
生きている人間は理念ではないことを改めて認識した。
そしてそれはそのようなものだろう。
著者がある点について自分の理想からずれているように感じられたとしても、説かれている法の価値や他の点についての敬意が変わる訳ではない。
カーラーマ経を思い出す等。
瞑想する前に心を整えるために読んだ書籍で思いがけない記述を見かけ、思ったことを言語化しないと落ち着いて取り組めないと考えて、ここに記してみたけれど、想定より時間が掛かってしまった。
次回似たようなことがあった時はどうしようか。