仏法における「信じること」と「確信」、または「正見」の育て方について(読書メモ)

「正語」について学ぼうと思い、ポー・オー・パユットー師の『仏法』を開きました。
たまたま目に入った、信じることと「慧」に関する記述に(何回目かの)感銘を受けましたので、メモを兼ねて綴ろうと思います。
私の理解した範囲・ポイントと思う内容になっていますので、正確に全容を知りたい方は、原典に当たってください。
(特にこのエントリにおける「確信」「正見」「慧」の使い方が正しいか、いささか懸念を感じるのですが、時間の都合もあり、一旦そのままにして公開 することにしました。) ・信は慧の最初の段階である。
・またこの信は、(自分の見た範囲での)根拠のある信仰や感激である。
・根拠を求めずに、身や心を委ねるのは信ではない。これは駆逐または改善すべきである。
・従って、信は批判(※非難ではありません)の思考を推奨する。
・それが真実であることの証明への意欲を掻き立てるものが信である。
・信の根拠(理由)が全て明らかになった時、それが慧になり、信の役割が終わる。
これは「正見」について論じられた節から私が学んだことですが、信を慧に進めるための具体的な方法や、信が慧への道をどのように支援するか等も記載されており、仏法を学ぶ方には大変有意義な内容と思いましたので、一読をお薦め致します。